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第12回 すかすかを埋める眼

デジタル復元師 小林泰三

ある朝、地元の田舎道を歩いていると、やたら烏がうるさかった。
見上げてみると、電柱や電線でけたたましく鳴いていた。
しかし、おや、と思って私が目に止まったのはカラスではなく電柱であった。
しょっちゅう行き来しているこの道に、こんなにも電柱があるとは。

最近は、すっかり邪魔者扱いになっている電柱。
都心では地下に電線を通して、電柱の撤去が進んでいる。
と言ってもなかなか捗っているようにも見えないのはお国柄だろうか。
先進国の中でも、電線の地下化が進んでいない日本である。
それを許すのは、こんなにも異物が空を貫き渡っているのに、その景観を気にしていないところにあるのではないだろうか。
「気にしていない」とは語弊があるかも知れない。
言いかえると「目に入っていない」ということである。

このようなことがあると、私は「やっぱり日本人だなぁ」と思ってしまう。
日本人は、「あるものを簡単にないものにしてしまう眼」を持っているからである。
例えば、歌舞伎の舞台で見る黒子である。
舞台上での役者の着替えを手伝ったり、針金の先についた蝶をひらひらさせてみたり、それを客観的に見れば実にシュールな風景なのだが、見る側は存在する黒子をないものとして簡単に舞台の世界に熱中し、時に喝采し、時に涙を流す。
異物のはずの黒子が、鑑賞の邪魔にならないのである。

日本人の目には似たような機能がもう一つあって、「ないものを簡単に創造してしまう眼」も持っている。
能などに、その眼は大いに発揮される。舞台にはほとんど何もない。
時にシンプルなものが置かれるが、それも設定されるものを説明する手がかりはない。
見る側がそれを「見立てる」のである。
落語を見るときは、その機能が大いに発揮される。
若い娘、アホな若旦那、頑固な職人、どれもやっているのは大抵が中年男性である。
若い世代にも落語は人気だから、日本人の眼は力強く受け継がれている。

私がお勧めしたいのは、そういう目で持って、日本美術を鑑賞することである。
日本美術も落語のように、実はすかすかなのである。
つまりは、見る側がとっさに補う必要がある。
立体表現や動きの表現は、説明されていないものが多く、だからこちらが屏風ならジグザグにしてロウソクの灯りを当ててみたり、絵巻物なら両手でくるくる操作してみたりする。
すると眼の機能が起動して私たちは絵の世界に入り込むことができ、絵の方から饒舌に語り始めてくるのである。

©小林美術科学

私にとってすかすか芸術の代表格が、国宝・松浦屏風。
真っ白な似たような顔の羅列と、動きのない女性たちが配置される。
こんなにぶっきらぼうな作品も珍しい。
これを説明するには、実際に触って立てまわして、ロウソクの灯りで見ないといけない。
いつかこの屛風を復元し(色はよく残っているので単にレプリカ製作になるかもしれない)、皆様にこの無愛想な婦人たちが饒舌に語ってくる様をご紹介したい。

今回は、見立てる才能は現代人にも生きていること、それはすかすかの芸術に対しても機能することを紹介するまでにとどめておこう。



  小林泰三・こばやしたいぞう

1966年、東京生まれ。
大学卒業時に学芸員の資格を取得。
2004年小林美術科学を設立し、本格的にデジタル復元の活動を開始。
著作に「誤解だらけの日本美術」(光文社新書)など。